男性の茶の湯
本文へジャンプ
第4回 茶道具の鑑定

茶道具の鑑定について法泉寺 笛岡教雄住職にお話を伺いました。
「駿河には、過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とまでいわれた白隠(雲水)がかいた、掛け軸を前に茶道具の拝見の仕方、見方などを教えていただきました。
白隠は、1685年、沼津の商家長沢氏の末子として生まれました。15才の時、原の松蔭寺で出家しました。諸国行脚の旅に出て、悟りを開くための修行に励みました。現実生活において幸せを願う人間の甘えや弱さをふまえた布教活動が支持され、民衆の間にも広がっていきました。文字の読めない民衆の為に、禅宗の教えを大胆なまでにわかりやすく説いた書画を、生涯書き続けました。

今回、拝見させていただいた書は、「直指人心 見性成仏」とかかれており、この語は、「不立文字」「教外別伝」と同じように「禅」の特性を表わす代表的な語です。

「直指」とは、直ちに指すこと。文字、言葉などの他の方法によらず、直接的に指し示すことをいいます。「人心」とは、感情的な「心」ではなく、自分の心の奥底に存在する、仏になる可能性ともいうべき本心・本性・仏心・仏性といわれるものです。ですから「直指人心」とは、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握することをいうわけです。 「見性」の見とは、ただ物を対象的に見るのではなく、対象そのものになり切る、一体、一枚になることです。性とは、直指人心、すなわち、仏心仏性を意味します。「成仏」とは、世間でいわれるように死ぬことではありません。仏陀(覚者)になること、覚った人間になることです。「見性成仏」は、すなわち、自分の奥底に存在する仏心仏性になり切って、真実の人間になることです。私たちは、何か求めるというと、他にいろいろと求めてウロウロしますが、禅は直接、自分の心に問いかけて、自分の本当の姿、仏心仏性を看て取れというわけです。言いかえれば、「直指人心、見性成仏」以外に、禅の悟りに至る道はないというのです。文字も、言葉も、経験も、祖師も、坐禅も、すべて覚者になるためには不必要だ! 自分の心に向かって究める以外に法はない、と断言しているのです。